2004年10月20日
徳と幸福の合致(最高善) memo
カント『実践理性批判』(以下第二批判)においてその中心問題となっている道徳法則について考え、その中でも徳と幸福の合致(最高善)を促進すべきであるという第二批判のアンチノミーについて論じる。
結論から言えば、われわれは自然的側面と自由な自然を超えた側面をもち、有限な理性的存在者としては、道徳法則に対して尊敬を抱かざるをえず、また道徳法則の命令を義務として受け止め、ただ義務ゆえに行為することでわれわれが真に自由である事を示し、自然と異なる側面をもつ存在である事を証明するのである。
しかし人間は自己の満足を求め、道徳性という自然とは相反するものと、傾向性という自然的な感性に適合したものを要求せざるをえない。よってこのような徳と幸福は外見上対立する概念となる。だが人間性の本来的なものとして道徳性を、道徳性を想起する人格の充実という意味で幸福を考えれば、なんら徳と幸福とは矛盾するものではなくなる。
またそのような人間の本来的な側面を確信できるとすれば、道徳的な人格は無限となろうし、道徳的世界の創始者として神を考えることも虚妄ではないといえる。このような仮定は信仰と呼ぶに相応しいと思われる。この道徳的信仰こそ人間の有限性と無限性の相克を解消する手立てであろうし、唯一己自らに信頼と希望を与えるものであろう。
(1)『実践理性批判』の概要
カントは『純粋理性批判』(以下第一批判)によって人間の認識が現象界にのみかかわる有限なものであることを示し、旧来の形而上学を批判して人間の認識を新たに確実なものとした。その一方で物自体の叡智界を否定し去る事はせず、可能性として残すこととなった。そして『実践理性批判』によって物自体の世界を道徳的な世界として明確にし、第一批判では拒まれた自由・不死・神の存在という理念を実践的に自然とは異なる自由な道徳の世界において証明することとなった
結論から言えば、われわれは自然的側面と自由な自然を超えた側面をもち、有限な理性的存在者としては、道徳法則に対して尊敬を抱かざるをえず、また道徳法則の命令を義務として受け止め、ただ義務ゆえに行為することでわれわれが真に自由である事を示し、自然と異なる側面をもつ存在である事を証明するのである。
しかし人間は自己の満足を求め、道徳性という自然とは相反するものと、傾向性という自然的な感性に適合したものを要求せざるをえない。よってこのような徳と幸福は外見上対立する概念となる。だが人間性の本来的なものとして道徳性を、道徳性を想起する人格の充実という意味で幸福を考えれば、なんら徳と幸福とは矛盾するものではなくなる。
またそのような人間の本来的な側面を確信できるとすれば、道徳的な人格は無限となろうし、道徳的世界の創始者として神を考えることも虚妄ではないといえる。このような仮定は信仰と呼ぶに相応しいと思われる。この道徳的信仰こそ人間の有限性と無限性の相克を解消する手立てであろうし、唯一己自らに信頼と希望を与えるものであろう。
(1)『実践理性批判』の概要
カントは『純粋理性批判』(以下第一批判)によって人間の認識が現象界にのみかかわる有限なものであることを示し、旧来の形而上学を批判して人間の認識を新たに確実なものとした。その一方で物自体の叡智界を否定し去る事はせず、可能性として残すこととなった。そして『実践理性批判』によって物自体の世界を道徳的な世界として明確にし、第一批判では拒まれた自由・不死・神の存在という理念を実践的に自然とは異なる自由な道徳の世界において証明することとなった
Posted by 播磨のいぢ at 18:19│Comments(0)
│ことば・用語・考え