
2010年04月12日
朝倉義景の時世の句 七転八倒四十年中無他無自四大本空
江~姫たちの戦国~で来年のNHK大河ドラマも盛り上がりそうですが、
それに便乗して、福井県の朝倉氏遺跡周辺も盛り上がっていました。
桜もきれいな時期で景観は最上。
そこでみかけた
朝倉義景の時世の句が興味深かった。
「七転八倒四十年中無他無自四大本空」
⇒七転八倒して苦しみもだえた四十年の生涯は、結局他も無く自も無く本来空しいものであった
これは単に空しい人生だったという悲しい歌ではなく、
朝倉家100年の歴史が常に戦とともにあって
争い、戦いの日々の中でさえ文化や芸事をもとめ、今も残る庭園・城下町を残した
朝倉義景の時世の句と知って聞けば、感慨深い。
結局は一族は滅亡してしまう運命にあるのだが。

一乗谷朝倉氏遺跡・武家屋敷

@参考資料
http://www.nhk.or.jp/pr/keiei/otherpress/pdf/20090617.pdf
大河ドラマ 第 50作 〜姫たちの戦国〜. 作:田渕 久美子
それに便乗して、福井県の朝倉氏遺跡周辺も盛り上がっていました。
桜もきれいな時期で景観は最上。
そこでみかけた
朝倉義景の時世の句が興味深かった。
「七転八倒四十年中無他無自四大本空」
⇒七転八倒して苦しみもだえた四十年の生涯は、結局他も無く自も無く本来空しいものであった
これは単に空しい人生だったという悲しい歌ではなく、
朝倉家100年の歴史が常に戦とともにあって
争い、戦いの日々の中でさえ文化や芸事をもとめ、今も残る庭園・城下町を残した
朝倉義景の時世の句と知って聞けば、感慨深い。
結局は一族は滅亡してしまう運命にあるのだが。

一乗谷朝倉氏遺跡・武家屋敷

@参考資料
http://www.nhk.or.jp/pr/keiei/otherpress/pdf/20090617.pdf
大河ドラマ 第 50作 〜姫たちの戦国〜. 作:田渕 久美子
朝倉義景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朝倉 義景(あさくら よしかげ) は、戦国時代の武将。越前の戦国大名。越前朝倉氏第11代(最後)の当主。
一乗谷朝倉氏遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡である。戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。
遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けている。
福井市街の東南約10km、足羽川支流である一乗谷川下流沿いの細長い谷あい(一乗谷、東西約500メートル、南北約3キロメートル)に築かれた戦国時代の城下町と館跡および背後の山城が一乗谷朝倉氏遺跡である。一乗谷は、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群であった。また、三国湊(坂井市)に続く足羽川の水運や大野盆地(大野市)に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中(越前市)へ続く街道などが通り交通の要衝でもあった。さらに、一乗谷は北陸道より数キロメートル東寄りに位置するため、朝倉街道が整備され北陸道と連絡した。
一乗谷の南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朝倉 義景(あさくら よしかげ) は、戦国時代の武将。越前の戦国大名。越前朝倉氏第11代(最後)の当主。
一乗谷朝倉氏遺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだに あさくらし いせき)は、福井県福井市城戸ノ内町にある戦国時代の遺跡である。戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉氏の遺跡。一乗谷城(山城)と山麓の城下町(朝倉氏および家臣の居館)からなる。
遺跡全体(面積278ヘクタール)が国の特別史跡で、そのうち4つの日本庭園は一乗谷朝倉氏庭園の名称で国の特別名勝の指定を受けている。
福井市街の東南約10km、足羽川支流である一乗谷川下流沿いの細長い谷あい(一乗谷、東西約500メートル、南北約3キロメートル)に築かれた戦国時代の城下町と館跡および背後の山城が一乗谷朝倉氏遺跡である。一乗谷は、東、西、南を山に囲まれ、北には足羽川が流れる天然の要害で、周辺の山峰には城砦や見張台が築かれ、地域全体が広大な要塞群であった。また、三国湊(坂井市)に続く足羽川の水運や大野盆地(大野市)に通じる美濃街道、鹿俣峠を抜け越前府中(越前市)へ続く街道などが通り交通の要衝でもあった。さらに、一乗谷は北陸道より数キロメートル東寄りに位置するため、朝倉街道が整備され北陸道と連絡した。
一乗谷の南北に城戸を設け、その間の長さ約1.7キロメートルの「城戸ノ内」に、朝倉館(武家屋敷)をはじめ、侍屋敷、寺院、職人や商人の町屋が計画的に整備された道路の両面に立ち並び、日本有数の城下町の主要部を形成していた。
Posted by 播磨のいぢ at 20:07│Comments(0)
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